恋愛小説No.14「愛する人よ、さようなら」

郊外の墓地に書かれているのはアラルド・ゼイモスという名前。
彼は私の婚約者だった人だ。

夕暮れ迫る少し冷ややかな時間。
私は墓に手を合わせた。

途端にアラルドとの記憶が脳裏を駆け巡る。

「ソフィア。お前の結婚相手が見つかった。ゼイモス伯爵家の子息アラルドだ。分かったな?」

今から半年ほど前。
父は私を書斎に呼び出すとそう告げた。
私は伯爵家の娘として生まれ、この縁談ももちろんのこと政略的なものである。
十八歳であった私は、理想を自分の中へ押し込め父の言葉に頷いていた。

それから少しして私はアラルドと顔合わせをした。

「やあ、君がソフィアだね。これからよろしく」

彼は貴族というにはどこか緊張感が無く、それが独特の軽やかさを生んでいた。
話しやすく、滅多に怒ることも否定することもない彼のおおらかさに私は次第に惹かれていった。

正式に婚約が決まると両親は私を祝福してくれた。
ああ、これで私も一人前の貴族になれたんだ。
自分の価値が上がったような気がして私は多少の優越感に浸っていた。

しかしそんな最中、アラルドは突然病気に倒れた。
元々体が若干弱くあったらしい。
流行り病を運悪く発症してしまい、病院に入院をすることになったのだ。

だが、どん底はさらに先のことだった。

アラルドが病に伏して二か月。
彼は日に日に衰弱していった。
筋肉が衰え、頬がこけ、目は虚ろに虚空を見つめるようになっていた。

しかし彼は笑顔だけは絶やさなかった。
私はそれを見て必死に涙を堪えることしか出来なかった。

三か月目になっても彼は回復することはなかった。
アラルドの両親が医師に詰め寄るも、医師たちは首を横に振った。

「残念ですが、息子さんはもう助かりません。体の内側から病に侵されてしまっています。手の施しようがありません。もってあと一か月かと……」

医師の言葉を聞いた彼の両親は大粒の涙を流した。
傍で聞いていた私は衝撃で思考が止まっていた。
大人になったはずの自尊心が砕け散り、自らの幼さをさらけ出した。
死人のような虚ろな目で自宅に帰った私は部屋に籠り泣いた。

数日後、私は彼に会いに行った。
涙が枯れた後に、このまま部屋に籠っていても何もならないということに気づいたからだった。

病室には彼の両親がいたが、私を見ると病室から出て行った。
二人とも目の下のくまが酷かった。

ベッドの横に置かれている椅子に座り、私は痩せ衰えた婚約者の顔を見つめた。
朽ち果てた樹のように精気に乏しく、死が迫っていることは十分に感じられた。

彼は今にもこぼれ落ちそうな瞳を私に向けると、口を開いた。

「ソ……フィア」

喉を潰されたような掠れた声だった。
私の瞳にぐっと涙が溜まる。
それを落とさないように口を強く結ぶと、私は彼を見つめたまま頷いた。

「ソ……フィア……君に……伝えたいことが……あ……る」

私はそっと彼の手を握った。
小枝を握るように慎重に、しかし最大限の愛情をこめて。

「僕は……し……あわせ……だった……君と……出会えて」

私は大きく頷いた。
口を開いてもっと彼に言葉をかけたかった。
愛していると言いたかった。

しかし私は断固たる決意で口を堅く結んでいた。
今泣いてしまえば、かえってアラルドに心配を与えてしまうことになる。
私はそれがとにかく嫌だった。

「僕のことは……いい……自分の……幸せ……を……見つけて……ほしい……」

アラルドの瞳から涙がすっと流れ落ちた。
声を上げることも顔を歪めることのない、清らかで静かな涙だった。

私はそれを見て思わず口を開いてしまった。

固い決意が風に舞う砂にように流れ、言葉が喉元から溢れ出た。

「アラルド! 私も幸せだったよ! あなたと出会えて……本当に……本当に……」

堪えていた涙が堰を切ったように流れ出し、代わりに言葉を紡ぐことは出来なかった。
しかし彼は私の本意を察してくれたようで、微かに口元が微笑んだ。

「ありがとう……」

彼は最期にそう言うと、静かに目を閉じた……

手を離すと、私は彼の墓石にじっと見入った。
未だに彼が死んだことを信じられない自分がいる。
次の瞬間にも背後から肩を叩いてくる予感がして、しかしそんなことはあり得ないと直ぐに自分を律した。

ふいに強い風が横から吹いてきて、地面に伏した枯れ葉を舞い上がらせた。
その一つが墓石の上にのり、重力ですぐさま地面へと落ちる。
私はそれを拾い上げようとしたが止めた。

拾い上げることは容易い、しかしそれはあまりにも悲しいことに思えたのだ。
前を向くためにはしてはならない禁忌のように思えたのだ。

「アラルド……」

私は上空に顔を向け、そっと彼の名を呟いた。

「私に幸せをくれて、ありがとう」

遠くの世界で暮らす彼に届くように。

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