恋愛小説No.20「この現実が夢であったなら」

「そろそろ終わりにするか」

それはちょうど日が落ちかけた時だった。
オレンジ色よりやや暗い空に、薄い月が身を潜めていた。

「終わり……」

疑問に近い驚きが私の体中をめぐり、感覚を麻痺させた。
彼はというと、私とは対照的で、凛とした表情で立っていた。
 
「終わりってどういうこと?」

「どういうって……そのままの意味だよ。もう別れよう」

「私たちが?」

「うん」

悪びれる様子もない彼の態度に、困惑と、隠し味程度の怒りを抱えながらも、彼が再び口を開くのを慎重に待った。

「……でさ」

私が予測していたよりもその時は早く訪れた。
 
「婚約も無かったことにしてほしいんだ」

少しだけ分かっていたような気もする。
それほどまでに最近の彼の態度は冷めきったものだったのだ。
 
「他に好きな人が出来たの?」

私は彼の言葉に答えることなく、自分を優先した。

「まぁ……」

「誰?」

「え?……えっと、お、俺よりも身分の高い人で……」

「ふーん」
 
やっと彼が焦り始めると、なぜか安心する。
端正な顔立ちが歪むのを見ると、自分が彼に影響をしているということが自覚できた。
心が重たくなりながらも、私は質問を続けた。
 
「綺麗な人?」 

「うん」

「お金は?」

「そりゃあたくさん持ってるよ」

「ふーん」

その後もいくつかの質問をしたが、その最中一度も彼の目を見ることはなかった。
彼もまた、私を見ることはなかった。

……気になることがないと言ったら嘘になる。
 
彼は私のことを十分に愛してくれていた。
しかし彼は私以外の人も愛していたのだ。

おそらくその相手は……妹。

私よりも両親に目をかけられ、お金を持って、あらゆる才能と美貌に溢れている妹。
彼が選んだのはその人だったのだ。

いつの間にか日が落ちていて、夜空に星が輝き始めていた。
 
「それじゃあ」
 
彼が先に別れを切り出し、お互いに反対方向の家へと歩きだした。

自分の部屋の扉を開けると、私は窓辺の椅子に腰かけた。
立てつけの悪い窓を、鈍い音を響かせながら開けると、遥か彼方の世界まで見えてくるような気がした。
しかし実際に見えるのは向かいの家の屋根と、遠方の星だけで、未知の場所に足を踏み入れることは出来ない。それはあくまで妄想に過ぎないのだ。

「私は……」

現実に戻るために何かを口にしかけたが、心が自分を制御しているのか、何も言葉が浮かばなかった。 
頭に浮かんでくるのは、彼と過ごした楽しい思い出と、両親に酷く怒られた苦い記憶だけだった。

「あ、そうだ……」

私は思いだしたように立ち上がると、ベッドの横の引き出しを開けた。
そこには大量の睡眠薬が入っている瓶があった。
一か月ほど前から上手く寝付けないので、医師から処方されたのだった。

『眠れないからといって、大量に飲むことはしないでくださいね。本当に命に関わりますから』

医師の言葉が蘇る。
 
「もしこれを……」

私は急に視界が滲むのを感じた。
慌てて袖で目をこする。
きっと目は赤く腫れてしまっているのかもしれないが、今はそんなことどうでも良かった。

「これを飲めば」

不思議と頭が冴えわたっている。
今までにないくらい自分が高揚しているのも分かる。

「飲めば……」

耳を澄ますが、何も物音はしない。
この世界に今いるのは私だけなのだ。

私はごくりと唾を飲み込むと、瓶の蓋を開けた……

痛い……

体の奥がズキズキする……

私は……死んだの……?

淡い希望を胸に抱え薄目を開けると、そこにはいつもの見慣れた天井があった。

「……そっか」

窓から見える景色はすっかり真夜中になっていて、いつもは綺麗な星の輝きも今は鬱陶しいかぎりだった。

どうやら今の今まで眠っていたらしい。
いつもより格段に気持ちの悪い目覚めだった。
 
「ふぅ……」

溜息まじりに目玉を動かすと、枕の横に瓶が倒れているのが見えた。
小さな錠剤が瓶の中から飛び出して無造作に散らばっている。

それらの一つ一つが自分の甘さのような気がして、私は自分が許せない気持ちになった。
 
「死ななかったか……ふふ……はぁ……」

嬉しいのか悲しいのか分からなかった。

……睡眠薬を大量摂取して死ぬ。
数時間前まではそれを決意していた。
今までの人生で一番強く思った出来事かもしれない。

しかし今は違う。
終われなかった悲しみと終わらなかった喜びが心の中で乱立していた。
どうやら私は生を感じてしまったらしい。

「うん……」

力なさげに頷くと、私は体を起こした。
頭痛と気持ち悪さはあるが、何とか体は動かすことができた。

窓辺に立ち夜空を見上げる。
今日ばかりは何も感じない。

「……」

無言のまま体の向きを変え、部屋の扉を前にした。
手を伸ばしそれを開けようとしたが、妙に心臓が脈打った。

「どうやって生きよう……」

思いがポツリと小雨のような言葉になり、現実の残酷さを自分自身に痛感させた。
しかし、不気味な高揚感と目新しい感情に支配され、私は手を伸ばすことを決意した。

「……」

扉が軋む音が静かに部屋に響いた。

「おい、お前に手紙が来ているぞ」

水でも飲もうと思って階段を下りると、手紙を持った父が目の前に現れた。
いつも不機嫌そうな父親。
やはりまだ苦手意識はぬぐえそうにない。

「うん……」

私はぶっきらぼうに手紙を受け取ると、水を急いで飲み、自室に逃げ込んだ。

「なんだろう」

窓辺の椅子に腰を下ろし、手紙の封を開ける。
綺麗な文字で上から下までびっしりと文章が書かれている。
差出人の名前は昔懐かしい幼馴染のものだった。

『お元気ですか?僕は今遠い街にいます。君は電話が嫌いだからこうやって手紙にしたのだけれど……』

そんなような他愛のない挨拶から始まり、近況報告や私に対しての質問が手紙の大半を占めていた。
だが、文章の最後の方にはこう書かれていた。

『そういえば、仕事が落ち着いたらそっちに帰ろうかと思っているんだ。久しぶりに会わないかい?』

心が少しだけ揺れた。
 
……昔、彼が私のことを好きだという噂が立ったことがあった。
私は別段彼のことを特別に見ているということはなかったのだけれど。
だが、もしかしたら彼は今でも……ついついそう考えてしまう。

彼が婚約したとか結婚したとかいうことは手紙には書かれていなかった。
神様がくれたチャンスなのだろうか……。
心の中の絶望が少しだけ和らいだ。

……私と違って妹はそそくさと結婚してしまうに違いない。
だが私はどうだろう?
幼馴染の彼と婚約するにしてもそれは遠い未来の話なのかもしれない。
 
「ふぅ……」

頭が痛くなってきたので、私は考えることを止めることにした。
考えたって私にはどうにもできないことだ。
彼はいつかこの街に帰ってくる……それが分かっただけでも十分だ。

未来がどうなるかなんて誰にも分からない。
なので、とりあえずは生きていようかな。

「うん、そうしよう……」

私は静かにそう呟いた……

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