「婚約破棄してくれないか?」
婚約者のカイルに突然そう言われ、私の頭は混乱した。
彼と付き合って一年半、今までで一番の衝撃だった。
「どうして?」
私がやっとの思いで言葉を絞り出すと、カイルは申し訳なさそうに目をふせた。
「実は……他に好きな人が出来てしまって……それに君とこれからも一緒は……さすがにね……」
「そんな……」
きっと彼は私にどこか不満でも感じていたのだろう……それが引き金となって気持ちが他の人へ移ってしまったのだ。
悔しい気持ちと相手の女性を妬む気持ちが沸き上がる。
頭では分かっていてもなかなか心が追いついてこない。
この現実を認めたくない自分がいた。
「私は……あなたと一緒に……」
ここで別れたくないと駄々をこねるのは簡単なことだ。
しかしそんなことをしても何も変わらない。
彼の幸せを願うのならば、私と別れた方がきっと……。
「アリス。本当にすまない」
カイルは優しい口調でそう言った。
穏やかな彼の性格が、今回ばかりは少し気にさわる。
まるで初対面の男女みたいだ。
「分かった……あなたにもう気持ちがないのなら……それは仕方のないことだから」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、私は俯いた。
自分の両足が醜く見える。
「……どうでもいいかもしれないけど、好きな人って……誰なの?」
ふと気になって私が問うと、カイルは慌てた声を出した。
「え? えーと……そ、それは……」
普段は見ない彼の慌て様に思わず寒気が走る。
いやな予感が胸をついて離れない。
「言いにくいならいいけど……」
ため息交じりに言うと、彼は首を横に振った。
「いや、そういうわけではないけど……分かったよ。言うよ」
彼は観念したように一呼吸を入れて、言葉を発した。
「実は……カレンのことが好きなんだ……」
「え? カレン?」
カレン……それは私の幼馴染の名だった。
*
それからカイルはすぐにカレンと付き合いだした。
幼馴染といってもカレンとは普段からほとんど会うことはなかったし、カイルとの婚約の話も無くなってしまったので、特別気になるといったことはない。
……と思っていたのだが、婚約破棄は想像以上に心に負荷がかかるもので、二人がデートしている姿を思い浮かべただけで胸が痛んだ。
二か月ほど過ぎた現在では、まだマシになったが、まだまだ二人と楽しく会話することなど無理そうだ。
そんな生きにくい毎日を送っていると、ある日弟のジョセフが私に声をかけた。
「姉さん、写真撮りにいかないかい?」
「また?」
ジョセフは写真家をしており、今まで色んな貴族の写真撮影を頼まれてきた。
その職業のせいか、休日はよく外に写真を撮りに出かけている。
その際大抵は家族の誰かがジョセフの写真のモデルをやらされるのだ。
今日は両親が出かけているので、必然的に私がモデルみたいだ。
「なあ頼むよ。綺麗に撮るからさ」
「はぁ……分かったわよ」
少々気乗りしなかったが、外に出れば気分を変えられる気がしたので、私は弟と写真を撮りに出かけた。
馬車に揺られること十分。
弟と共に写真を撮る場所を探していると、どこかで見たことあるような人影が視界の遠くにちらっと映った。
あれは……。
私と同じくらいの背の女性で、髪は赤。
……ん?
そういえばカレンもそんな感じだけど……。
おそるおそるその女性を見てみると、それは案の定カレンだった。
隣の男性の腕を持ちながら仲良さそうに歩いている。
どうせカイルでしょ……。
そんなことを思いながら三度見てみると、男性はカイルとは違って黒の髪をしていた。
「え?」
これって……。
その瞬間、私の頭は高速回転し、事態を把握した。
確証はない、しかしそうであれば一大事だ。
「止まって!!」
考えるよりも先に言葉を発していた。
馬車が急停車し、大きな揺れに襲われる。
「おいおい、どうしたんだ急に!」
「ごめん。でも一大事だから……」
そう言うと私は弟が手に持っているカメラに目を移した。
「私ついてるかも」
*
後日、私はカレンを部屋に呼びだした。
久しく会っていなかったので正直彼女が来るか心配だったが、特に嫌そうな顔もせず部屋に入ってきたので、少し安心した。
と同時に緊張もした。
「久しぶりアリス。今日は突然どうしたの?」
「突然でごめんね。実はね……」
私はそう言うと、一呼吸ついた。
緊張していた体がほぐれていく。
「この前、街であなたの姿を見たの……」
「……え?」
カレンが一瞬狼狽える。
しかし次の瞬間には飄々とした顔つきに戻っていた。
平静を装った彼女に私は言葉を放つ。
「私はてっきりカイルと一緒にいるものだと思っていたけど……違ったようね」
「は? な、何を言ってるの?」
カレンの顔が歪み、焦ったように私に一歩詰め寄った。
昔の彼女とはまるで別人のような顔だった。
「すごくイケメンでお金持ちそうな人だったけど……」
「あんた急に何言ってんの! 一体何の話なのか分からないのだけど!!」
怒りの声を上げながら、カレンが眉をぐっと上にあげた。
「嘘だね。嘘つく時に眉を上げる癖、まだ直ってないようね」
「な……こ、これは……」
眉を隠すようにカレンが手をやる。
嘘をついていないのならわざわざ隠す必要などない……彼女自身もそれに気づいたようで、手を下に戻すと私をきりっと睨みつけた。
「……ちゃんと証拠もある。ほら」
私はそう言うと、ポケットから数枚写真を取り出した。
そこにはカレンと恋人のように手を繋ぐ男性の姿が映っている。
「カレン……どうしてこんなことしたの? あなたはカイルと付き合ってるんじゃないの?」
カレンは悔しそうに私を睨みつけた後、煩わしいものを跳ねのけるが如く声を出した。
「うるさいなぁ……」
私の目を睨みつけたままカレンはそう言うと、瞳を一層冷たくさせる。
「別に皆やってることでしょ……カイルと別れたらどうするの? あんたそこまで考えてる?……私はね、ちゃんと考えてるの。だから二人の男と付き合って人生ダメにならないようにしてるのよ。保険よ保険」
一体彼女は何を言っているのか?
浮気なんて当然のことと思っているの?
そんなことはありえないでしょ。
私は呆れたように深いため息をつくと、部屋にあった大きなクローゼットの扉を叩いた。
「カレン……あなたがそんな人だったなんて……本当に残念だわ」
私の声と共にクローゼットの扉が開く。
そしてそこから出てきたのは……。
「僕も残念だよ……信じていたのに……」
カイルだった。
*
「カイルどうして……アリス!どういうこと!」
カレンは強い口調で私の方を向いた。
私が口を開こうとするよりも先に、カイルが言葉を発していた。
「僕が頼んだんだ。カレンの本性を知りたいって……隠れさせてくれって……」
カレンが苦悶の表情に顔をうずめる。
「そんな……つまり……今までの話……聞いてたの?」
「ああ、もちろんさ」
カイルはそう言うと、カレンの肩にそっと触れた。
「だから君とはもう終わりにするよ……別に君は僕じゃなくても大丈夫なんだろ?」
怒ったような、しかし悲し気な声が響き渡る。
「……大丈夫じゃないわよ。大丈夫じゃない……どうしてくれんのよ!!」
しかしそれを押しのけるようにカレンはカイルに詰め寄ると、胸ぐらを掴んだ。
カイルが驚きに顔を満たす。
「ダニエルには振られるし、両親は早く婚約しろってうるさいし、あんたが今いなくなったら私は……お、お前のせいだ! 私と別れるなんて許さないぞ!」
「カレン!!」
私はそう叫ぶとカレンに駆け寄り、頬を思い切り平手打ちした。
鋭い音が部屋に響き、カレンが床に倒れこむ。
「あなた自分の立場が分かってるの!! いくらなんでも自分勝手すぎない!! 見損なったわ、見ない間に最低な人間になってしまったようね」
言いたいことを言うのは久しぶりだったので、それはとても新鮮な感覚だった。
胸の奥に溜まったものがすっと消えていく……そんな感覚。
カレンは疲れたように起き上がると、キッと私を睨みつけ部屋を出ていってしまった。
カイルは彼女を追おうとしてふと足を止めた。
「……アリス。ありがとう……」
そしてその言葉を言った後、部屋を出ていった。
……その後、程なくしてカイルとカレンが別れたという噂が立った。
またカレンの浮気が次々に発覚し、貴族の間では彼女はちょっとした有名人となった。
一方カイルは罪滅ぼしのように私に縁談話を持ち掛けてくれた。
しかし色んなことがあって誰かと付き合う気にはとてもなれそうにないので、とりあえず保留にしてもらった。
どこか物悲しい気持ちはある、だが、どこか未来が変わるような予感がする。
私も写真家になろうかしら……そんなことをふと思った。
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