恋愛小説No.8「覚えてないと言われましても」

「悪いが、もう俺とは婚約は破棄してくれないか?」

婚約者のフロイトはある日、私を家に呼びだすとそう告げた。
突然人生が終わったように口をぽかんと開ける私。
上手く頭も回らなかった。

「……え? どういうこと? 何かの冗談?」

数秒遅れて出た言葉にフロイトは首を横に振って反応した。

「冗談じゃないさリアン。もう君のことは好きじゃなくなったんだ。別れてほしい」

その言葉を聞いた瞬間、いつも見ているはずの彼の顔が別人に見えた。
そのくらい私は彼のことを信頼していたし、婚約が無くなることなどないと思っていたのだ。
とにかく衝撃的な言葉に私は苦悶の表情を浮かべた。

「そんな……あんまりだわ……」

その後も私は反対の意を唱えたが、フロイトは聞き入れてはくれなかった。
そればかりか、私の悪口まで言う始末であった。

「君のそういうところが俺は嫌いなんだ! いちいち鬱陶しいんだよ! たいして美人でもないのに調子に乗るな!!」

深く傷つくのと同時に悲しみが胸を貫いた。
フロイトは今まで私をそんな風に思っていたのだ。

裏切られた気分になって喪失感が沸き上がる。
気づいた時には部屋から飛び出していて、いつの間にか自分の家のベッドにうずくまっていた。

「フロイト、どうして……どうしてこうなるの……」

私は一人きりの部屋で静かに泣いた。

悲しみの夜を過ごし、後日。
昨日のことが嘘だったら良いのにと思いながら、私は勇気を振り絞って彼の家を訪れた。
昨日の話を決着させなければ……そう思ったからだった。

たとえ望まない結末が待っていたとしても、私はそれを受け入れなければならない。
それが人生というものなのだ。

門を通り庭に入ると、ちょうどそこにいたフロイトの兄ハンスが私に手を振った。
事情をハンスに話すと、彼は少し困ったような顔をした。

「そうか……でも、今弟は出かけているから、少し待っていてくれないか?」

ハンスは使用人を呼ぶと、私を応接間まで案内させた。
心臓の高鳴りが治まらないなか三十分が経過し、やっと部屋の扉が開いた。
フロイトの姿がそこにはあった。

「ん? リアン、どうしたんだい?」

皮肉にも彼はいつもの笑顔で私に接してくる。

「どうしたって……昨日のことを話しに来たのよ。話の続きをしましょう」

「昨日のこと?」

「ええ」

まるでそんなこと知らないとでも言いたげな目でフロイトは私を見つめている。
あんなに酷いことを言ったんだから忘れたとは言わせない。

今日は私も反撃してやる。
そう思った矢先、彼から意外な言葉が飛び出した。

「でも昨日は会ってないだろ。僕は出かけてたし。一体何のことだい?」

「は?」

「覚えてないの!? あなたから婚約破棄しれくれって……」

「はぁ? 僕がそんなこというわけないだろう! 寝ぼけてるのか?」

フロイトがあまりに真剣な顔で言うので、一瞬昨日のことが夢だったのかと思ってしまう。
しかしそんなことあるはずもないし、彼の一語一句まではっきりと私は記憶している。

一体彼は何がしたいというのだろうか?
今更うやむやにしたところで何も変わらないと思うのだが。

「だいだい僕とどこで会ったんだ?」

「ここよ」

「何時ごろ?」

「二時……くらい」

「二時……その時間だと隣町に仕事の材料を買いに行っていた。やっぱり何かの間違いじゃないのか?」

「そんな……」

警察の事情聴取のように質問に答えた私は、判然としない状況に怪訝な表情を浮かべた。

一体何が起こっているの?
昨日のことは夢……いや、そんなわけない。
夢と現実の区別くらいいくらなんでもつく。
でもフロイトは嘘を言っているようには見えないし……。

すっかり頭が疲弊してしまった私だったが、結局その日は真実が明るみにならないまま帰路についた。
フロイトと私は少し頑固な所があるので、こうして意見が食い違った場合は日を改めるのが恒例となっていたのだ。

家に帰ると、庭で掃除をしていた二人組の使用人が私をチラチラと見ている。
どうやら何か私を見て話しているらしい……少々気が立っていた私は、二人に近づくと声をかけた。

「私になにか?」

彼女らはびくっと体を震わせて首を横に振った。

「い、いや何でもありません!」

私はため息をつく。

「そんなわけないでしょ。怒らないから言ってみて」

「でも……」

「いいから!」

声を荒げると、使用人の一人が怯えるように口を開いた。

「実は……フロイト様のことなんですが……浮気しているとの噂があるんです……」

後日、私はフロイトを部屋に呼びだした。
使用人の噂の真偽を確かめるためである。

「あなた、浮気もしていたのね……」

「は? 何を言って……」

フロイトは真剣な眼差しで私を見つめていた。
少しばかり怒りが見受けられる。

「僕がそんなことをするはずないだろ? この前のことといい、何かおかしいぞ」

「おかしいのはあなたの方でしょ。一日前のこと忘れたりして……」

「だから! 僕が何をしたっていうんだ!?」

僕が僕がってこいつは……いつまでしらばっくれるつもりなのかしら。
そもそも……と、言葉を思いかけて私はそれを止めた。
どこか彼の言動に違和感を覚えたからだ。

フロイトに婚約破棄を迫られた時のことを思い返してみる。
彼は自分のことをどう呼んでいただろうか。
確か……。

「あっ」

私が声を上げると、怪訝そうな顔でフロイトがこちらを向いた。
私は焦ったように彼に問いかけた。

「フロイト、あなた自分のこと俺って言う?」

「は? なんでそんなこと……」

「いいから!」

返事を急がせるように早口に言うと、フロイトが意味も分からないと言いたげにため息をつく。

「はぁ……俺なんて使わないよ。昔から一人称は僕だよ」

やっぱり!
あの時の彼とは一人称が変化している。
……あの時感じた別人みたいな感覚、もしかして本当なの?
でも、そんなことって……。

「リアン、どうしたんだ?」

心配そうに私を見守るフロイトに私は決意の目を向けると、自分の考えを話し始めた。

……数日後、私とフロイトはとある人物を呼び出した。
場所はフロイトの部屋。

「リアンさん、フロイト。俺に何か用かい?」

彼の笑った顔をフロイトは真剣に見つめていた。
そして重々しい雰囲気で口を開いた。

「兄さん……」

私たちが呼びだした人物、それは……フロイトの兄ハンスだったのだ。
フロイトが続けられなかった言葉を私が代わりに言った。

「ハンスさん。本当はなぜここに呼んだか分かっているのでは? 私たちはもう知っていますよ。あなたが何をしたのか」

「……な、なにを言うんだい。よく分からないけど」

ハンスは分かりやすく焦った表情を見せた。
それを見て私はフロイトと顔を合わせると、大きく頷いた。

「先日ついに見つけました……顔を変える魔法が使える聖女を……」

「な……」

ハンスが大きな足音と共に一歩退いた。
彼の反応がこれから話すことが真実だと告げている。

「あなたはその聖女に頼んでフロイトの顔を手に入れたのですよね? 違いますか?」

「そ、それは……」

「兄さん。僕たちはもうその聖女から話は聞いているんだ。今更しらばっくれたってどうにもならないぞ」

フロイトがそう言うと、ハンスは観念したようにため息をはいた。

「くっ……そ、そうか……全部ばれてしまったのか……」

犯行がばれた犯罪者のような口ぶりでハンスはそう言うと、イライラを伝えたいかの如く頭を掻きむしった。

「くそっ、あの聖女……なんでバラすかなぁ……まぁ俺が依頼した時も不安そうにしてたからなぁ……いくら金を積んでも無理なものは無理か……」

そしてフロイトをキッと睨みつけると、不気味な笑みを浮かべた。

「全部お前が悪いんだぞ、フロイト。お前が俺より優秀だから……この事態を招いたんだ」

「な、なにを言っているんだ兄さん!」

フロイトが反感の意を大声で示すと、ハンスは語り始めた。

「お前は昔は俺よりも馬鹿でのろまで何もできなかった。俺を含めた多くの人間がお前を嘲笑した。だが、最近のお前は……俺よりも早くに婚約し地位を築き、両親にも期待されている……」

始めこそ怒りを帯びた語り口だったものの、次第にそれは悲しみを帯びたものへと変化していた。

「兄さん……」

兄の感情を理解できるのかフロイトの声がよわよわしくなる。

「お前はいつの間にか優秀になってしまって……でもそんなにたくさんのものを持っているのだから、それのどれか一つ無くなったっていいだろ。リアンと婚約破棄になったお前の顔が見たかったんだ……」

「……」

フロイトは黙って兄の瞳を見つめていた。

「聖女に顔を一日だけ変えてもらって……あぁ……そうだ、お前が浮気してるっていう噂も流したっけ……でもお前は結局婚約破棄なんてしなくて。全く……優秀な弟を持つと辛いよ……ははっ」

私の拳に思わず力が入る。
一体この男は何がしたかったのか……仮に婚約破棄したとして自分がフロイトに勝ったとでも言いたいのか?
こんな手を使う時点で負けているんじゃないのか。

「ふざけんな……ふざけんなぁ!」

そう思った直後、私の体は勝手に動き、ハンスの頬を思い切りビンタしていた。
ハンスが叫び声をあげながら、床に倒れこむ。

「あんたがフロイトに勝てなかったのは、努力の差でしょ!! フロイトが今までどれだけ努力を重ねてきたのか知ってるの!? そもそもこんな手を使ってる時点であなたの負けなのよ!!」

「ひっ……ひぃ!!」

ハンスは幽霊でも見たかのように私を畏怖の念を込めて見上げていた。
とその時、扉が突然開きフロイトの両親が入ってきた。
どうやらハンスが床に倒れこんだ音を聞いてかけつけたらしい。

「これは……どういうことだ! 説明しろ!」

フロイトが早口に両親に事情を話すと、それを聞いた二人は顔を真っ赤にしてハンスを連れ部屋を出ていってしまった。
扉が閉まっても、彼の父親の怒鳴り声が耳に届いていた。

「……リアン、君には迷惑をかけたね。本当にすまない」

部屋が静かになると、フロイトが呟いた。

「どうしてあなたが謝るの? それに迷惑かけたっていいのよ」

「え?」

きょとんとした顔をするフロイト。

「だって私たち家族になるのでしょう?」

「……うん、そうだね……」

この人といい家庭を築けたらいいな。
フロイトはいつもの優しい笑顔を私に向けていた。

「フロイト、これからもよろしくね!」

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